12.18

先日Red Hot Chili Peppersからの脱退を発表したJohn Frusciante。88年のバンド加入から09年再びの脱退まで、時系列でジョンとRed Hot Chili Peppersの関わりを、ざっとまとめてみます。Special Thanks to あどみんさん。
ドラッグで死亡したオリジナル・ギタリストHillel Slovakの後釜として、若干18歳のジョンがギタリストとして加入します。Thelonious Monsterのオーディションに来ていたジョンを、Anthony Kiedisが一目惚れして引き抜いたという経緯があります。当時のジョンはRHCPの熱狂的なファンで、アンソニー曰く「俺達のタバコの吸い方まで真似していた」というほどだったそうです。特に、死亡したヒレルのプレイは完コピしていたとのこと。客前で初めて演奏した時の映像です。
当時の髪型はモヒカンでした。
Anthony Kiedis、Fleaのオリジナル・メンバーにジョン、そしてドラマーにChad Smithを迎えた布陣でRHCP3枚目のオリジナル・アルバム、「母乳」を発表します。
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1990年には初来日も果たします。クラブチッタ川崎でのパフォーマンス。
そして、翌1991年には奇跡の傑作アルバム「ブラッドシュガーセックスマジック」を発表。
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キワモノバンドとしての印象が強かったRHCPの音楽的充実度を如実に現し、商業的にも大成功を収めたこの作品において、ジョンはただならぬクリエイティビティを発揮して、大いに才能を開花させます。
しかし、商業的に成功してしまったことでジョンはバンドのメンバーとして活動することに違和感を覚えはじめ、次第にドラッグに溺れていきます。その頃に収録されたサタデー・ナイト・ライヴでのパフォーマンス。己一人の世界に深く没入しているジョンが、あり得ない自由度でUnder the Bridgeのイントロをアレンジして、アンソニーを死ぬほど焦らせたシーンです。
1992年には二度目の来日を果たしますが、渋谷公演を前に突然の脱退を発表。そのまま帰国してしまいます。残ったメンバーは急遽代役を立て、ツアーを乗り切ろうとしますが、けっきょく残りの公演はキャンセルされてしまいました。
ジョンは自宅にこもりきりになり、創作活動とドラッグにのめり込みます。1994年には”Niandra Lades and Usually Just a T-Shirt”を、1997年には”Smile From The Streets You Hold”の2枚のソロ・アルバムをリリースしますが、ほとんど表には出てこない状態が続きました。その頃のジョンを撮影したドキュメンタリー番組。
しかしその後、フリーによるねばり強い説得もあって復帰に向けて動きがあり、前任のDave Navarroに代わってRHCPに復帰します。飛び入りしたチベタン・フリーダムでの映像。
復帰後のアルバムCalifornicationでは、バンドとしてさらに独自の世界観を描き出すことに成功しており、ここでもジョンの才能がいかんなく発揮された形です。
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来日公演はホールクラスにグレードアップし、RHCPが完全にメジャーバンドとして認知されたのが、このツアーからだったと言えるでしょう。
2002年に発表されたBy The Wayでは、メンバーの楽器を録音した後、ジョンによる大幅なオーヴァーダビングが加えられる事になり、フリーは意見の相違から脱退も考えるほど対立したと、後のインタヴューで明かします。
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2006年のStadium Arcadiumでもジョンのクリエイティビティはとどまる所を知らず、プレイスタイルも相当幅が広くなりました。
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来日ツアーもついにドームクラスになり、「ミュージック・ステーション」にも出演するなど、すっかりベテランバンドとしての地位を確立したと言えるでしょう。
しかし、ツアー終了後2008年の「活動停止」発表から1年、新作の期待が大いに盛り上がっている中、残念ながら2009年12月の脱退表明へと行き着きます。ジョンが三たびバンドへ戻ってくる日は来るのでしょうか。







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